狭い世界から広い世界へ(虐待からの解放)

「狭い世界」から「広い世界」への気づき。全てはそこから自分は変わった。




先日、当直前にササっと書いた短い内容が数日で「いいね」が186!正直、驚いている。

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自身が受けたマルトリートメント(不適切な養育)※について、反響があったのでもう少し書いてみたい(どれぐらいの方が興味があるか分からないが・・)


※マルトリートメント

福井大学 子どものこころの発達研究センター教授 友田明美さんの著書「子どもの脳を傷付ける親たち(14-15)」では「虐待という言葉が持つ響きは強烈で本質を見失う恐れがあるため…虐待とは呼ばずにマルトリートメントと呼んでいます」ということでした。

よって、マルトリートメントは虐待ではあるけども上記理由によりマルトリートメントと呼んでいます。





当時のことは完全に吹っ切れている。いや、むしろあの貧しさ、恥ずかしさ、母親から受けた恐怖などがあったからこそ、今がある。

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私が幼い頃(2歳ぐらいか)両親が離婚。
妹は父親に、私は母親に育てられた。


以下思いつくまま、何の文脈もなく書いてみる



小学生の時、冬に制服として着ていた「スモッグ」、クラス全員スモッグを着ている中で私だけが着れなかったことを思い出す。理由は、スモッグが汚れ過ぎていて恥ずかしくて着れなかったから。本当は母親に新しいのを買って欲しいと言いたかったのだが、毎日の食事さえまともに出来ておらず、申し訳なさからそんなお願いはできなかった。


当時自分はスモッグを「忘れた」とを言って学校に登校していた。

学校の先生から「どうして着てこないの?!明日は忘れずに着て来なさい!!」友達からも「どうして着てこないの?」と聞かれて毎日困っていた。


冬の服も持っていなかったので冬でも半そで半ズボンで過ごした。

ある日、先生がクラス全員の前で私を褒めてくれた。

「まなぶくんは半そで半ズボンです、元気で素晴らしい!みんなも見習いましょう!」


ビデオ(だったか?)を母親と一緒に質に入れに行ったのを覚えている。わずかなお金を手に入れ母親と一緒に行く買い物。母親と一緒に買い物するその時間が当時はとても嬉しかった。

ある日、学校から家に帰ったら差し押さえの赤札が家中の家具、家電に貼られていたことがあった。当時小学生の自分にはその赤札の意味が分からなかったが、何か不味いことが起きているのは理解できた。


食べ物がなく、角砂糖で過ごす日々(母親がコーヒー好きで常に角砂糖はあった)、母親は帰ってきたり来なかったり、寂しさ、ひもじさ。



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電話は鳴っても取るな!と言われていた。


それは、当時母親が付き合っていた「彼氏」に私の存在を伝えていなかったため。当時は携帯などないので連絡の取り合いは家においてある固定電話のみ。「彼氏」は固定電話にかけてくるため私が電話にでることは絶対にNGだった。母親から電話があるときは特殊なルールを設けていた。2回コールして切電、再度電話、これが母親からの電話という意味。これは母親が私に課したゼッタイに守らなければならない約束事だったが、私は一度だけその約束を誤って破ったことがあった。


「もしもし、、、あれ?〇〇さんのお宅ですか?」

それは「彼氏」からの電話であった。

「・・・あ、いえ、違います」


とっさに間違い電話ということにしたが、彼氏が母親に「間違い電話」を話したらしく、私は激しく怒られた。平手で叩かれ、蹴られ、「なんで生まれてきたんだ!生まなきゃよかった!」などとののしられた。




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この母親から課された約束事を破ったことが今でも自分に影響を与えている。

それは、自分の携帯がなると当時の恐怖心が想起され取ることができない、ということ。

何十年も経っているのに、これは変わらない。自分の携帯が鳴ると一瞬感情が大きく揺らぐのでそれを一旦沈めてから取る必要があり、取れないことも正直ある。


さすがに他方に迷惑をかけるので、頑張って電話に出ていた時期もあるが、どうも辛い。


結局電話をくれそうな方には「おかげさまで忙しくしておりまして電話を頂いても取れないかもしれません、良ければメールを頂きますとありがたいです」とメールをくださいとアピールしている。今世の中的にも電話よりもメールやLINEを使うのが主流なのでこれはありがたいと思っている。


中学校で転向した。友達が全くできずに不登校に。

当時の担任の先生他、確か4人ぐらいの先生が家にしょっちゅう来てくれていた。私を心配してくれている、優しいな・・自分の存在を認めてくれた大人だった。

だけど、当時の私はその大人の優しさをどう自分の中で処理していいか分からず、訪問してくれても家も開けれなかった。ドアも開けずにドア越しで先生と話していた。当時の先生には本当に申し訳ないと思っている。


中学生のときに何気に書いた紙。その紙が自分に気づきを与え、メンター(人生の師)への出会いに繋がった。



そこに書いたのは、



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(当時書いたものを改めて書いてみた)


自分の今置かれている世界を書いた。

書いた後思ったのは


「家と学校だけ・・自分の今いる世界はなんて狭いんだ!!」

「こんな狭い世界で自分は苦しんでいるのか!広い世界に飛び出したい!!」


 そして「新しい世界」として選んだのは、九州国際センター(当時福岡県に住んでいた)


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ここは今は知らないが、当時月に一度同センターに研修に来ている海外からの研修生と日本人との交流のためのパーティーが開かれる。僕はそこに英語の勉強もかねていきだした。


今まで会ったことがないような大人たちに囲まれた。名前を憶えてくれて家に呼んで食事をさせてくれたご夫妻(50代ぐらい)もいた。海外からの研修生も私のことを覚え仲良くしてくれ当時は禁止されていた研修生以外はNGのセンター内のビリヤードやカラオケルームでカラオケをさせてくれたこともある。


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(九州国際センターに通っていた時、当時の写真)


この写真でファンタを持っている子が私。私が14歳ぐらいなので29年ほど前となる。

後ろで私の耳を引っ張っているのがエジプトから研修生。このセンターで私は「一員」となり毎回のパーティーに参加するだけではなく、パーティーの話し合いの場にも参加していた。今思うと行動力が素晴らしい14歳だったと思う。


「この世界は実は楽しい!」


色々な大人と知り合い、その中で60代の男性からは僕のことを「忘年の友」と呼んでくれた。これは年齢が離れていても魂のレベルで私のことを友人だという意味で呼んでいてくれた。嬉しかった。小田原流のお花の先生で生け花の事を私に熱心に教えてくれたのを思い出す。


色々な大人との出会いがあった。


同センターでのパーティーでは、色々な役割を与えてくれて、パーティーでは司会もお願いされていた。


母親からは「あんたなんか生まなきゃよかった」「あんたは橋の下で拾った」と私のことを否定、私のことを必要がないと言われ育ってきた。

だけど、このセンターでは自分を必要と言ってくれている、役に立っている、会いたいと言ってくれている、忘年の友だとも・・・


居場所ができた。




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同センターに通う日々。


そのセンターである女性と出会い、その女性がもとでプロテスタントの教会に行きだし、その女性が参加していたボランティアに私も参加することに。そのボランティアがホームレスの人に週に一度おにぎりやお茶を届けるボランティア。そしてそこで私に大きな影響を与えたNPO団体抱樸の理事長をされている奥田知志さんと出会った。


それは私が14歳、中学2年生ぐらいのときだった。

その心のメンターである奥田さんとの出会いが今の私のアンカー(錨)となり現在の障害者の就労支援に繋がっている。



すべては母親のおかげ。

私に貧しさ、恥ずかしさ、恐怖を与えてくれて本当にありがとう。その経験があったからこそ、「世界に」目を向けることができた。



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